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──悪魔の夜伽話──
文・逆亦重 文(監修)・ゆきえゆた 画・西緒十琉
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「───私はねぇ、天使を食べたことがあるのだよ」
そう言うと悪魔は、腰まである長い髪をゆらゆらと揺らしながら、静かに立ちあがりました。
かろやかで優雅な動き。
長身を感じさせない、美しく貴族的な顔……
…顔だけ見れば人間のように見えましたが、獣のような耳を持ち、そのとがった耳の後ろからは、ねじれた角がするりと伸びています。そして背中には、真っ黒で大きな翼が4枚も生えていました。
悪魔は角にかかった象牙色の髪のひと房を、細くてきれいな指で払い落とすと、暖炉に薪をくべました。
窓の外は真っ暗でしたが、雪が暖炉の炎を反射し、きらきらと光るのが見て取れます。
とても静かで、凍てつく夜でした。
「寒くない?」
耳元で髪をかきあげながら、悪魔がゆるやかに振り向きました。象牙色だった髪が暖炉の炎の色に染まり、金色にかがやいて見えます。
悪魔の話に耳をかたむけていた少年は、小さくうなずきました。
毛布にくるまって毛足の長いじゅうたんに腹ばいになり、その胸に薄汚れたぬいぐるみを抱いて、ひとみをかがやかせています。
少年はぬいぐるみをぎゅっと抱きなおし、悪魔を見上げました。話の続きを待っているようです。
くべられた薪に炎が燃えうつり、パチパチと音をたて始めました。
少年は悪魔を見つめ、悪魔は炎を見つめています。
───まるで昔々の出来事が、暖炉の奥に見えているかのような───そんな遠い目をして、悪魔は語りだしました。
「…今日のように、とても寒い日でね…」
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その日は、朝から雪がふわふわと舞っていました。
生き物の気配が一切無い、石造りの冷たい城……
その城で一人、悪魔は退屈を紛らわしていました。
人魚の背ビレでできた櫛で長い髪をすきながら、舞い落ちる雪を数えてみたり、窓に張り付いた雪の結晶を、画用紙ほどもある竜の鱗に描き写してみたり……
それにもあきた悪魔は、ふと何か思いついたのか。その背に生えた大きく黒い翼を羽ばたかせ、天窓から飛びたち、城をあとにしました。
悪魔が降り立ったのは人間の世界でした。
人間の世界では、今も昔もかわらずに、あちらこちらで戦争をしていました。
悪魔は思いました。
──今日みたいな日は、死んだ人間や、死にかけてる人間の上につもる雪を見れるかもしれない。それはきっと美しく、この果てしない退屈を紛らわせてくれるだろう──悪魔の胸は期待でいっぱいです。
そして、期待したとおり。
人の世界は死と冷気で満ちていました。
はいつくばって最後の生をつかもうとしている老人や、手足どころか命も無くした兵士。道端で幼子を抱いたまま、こときれた母親。
黒い煙、汚泥、苦痛と死。
血や腐臭の臭い……
戦場になってしまった街は、そんなものでいっぱいでした。
凍てつく空気の中、ふわり、ふわりと舞い落ちる雪。
綿毛のような雪はどんどん降りつもり、あらゆるものを白く染めてゆきます。ぬかるんだ道や畑を隠し、焼け落ちた山野や屋根をおおい、倒れている人々の上に、静かに、静かに重なってゆく……
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それらは悪魔の目に、とても美しく映りました。
チョコレートケーキに粉砂糖をまぶしたような、甘い美しさ……そんなふうに、悪魔は感じていたのです。
自分のからだに降りつもる雪もそのままに、悪魔は静かにたたずんで、人々をおおってゆく雪を眺めていました。
やがて、泣き声やうめき声は聞こえなくなり、あたりは静かになりました。
──腐肉や汚泥だけでなく、苦痛さえも白く染められゆく──その美しさに、悪魔はうっとりと微笑むのでした。
…そうして半日も過ぎたころ。
ひどくみすぼらしい男が、悪魔の前を通りすぎました。男は、ねずみ色をしたぼろぼろの外套を身にまとい、穴の開いた泥まみれの靴で、焼けこげた街の中をふらふらと歩いてゆきます。目深にフードをかぶっているせいで、その顔はよく見えません。
悪魔はびっくりしました。なぜって、その男から、すばらしく良い匂いがしたからです。
香水の香りでも、食べ物の匂いでもない。悪魔の本能を刺激するような、そんな匂いでした。
悪魔はひきよせられるように、すうっと男の後を追いました。
後をつけて観察してみると、妙なことをしているのが見てとれました。みすぼらしい男は、倒れてる人間に近寄っては、その耳元で何ごとかをささやいているのです。そして不思議なことに、ささやかれた者は立ち上がって歩き出すか、そうでない者は、眠るように安らかにこときれるのでした。
しかも死者の魂は全て、天の国へ召されていたのです。
人間は死ぬと、その身は土に還り、魂は身体を離れてしかるべきところへ向かいます。魂の行き先は人によって様々ですが、戦争をしている今、天の国に召される魂は、残念なことにとても少なくなっていました。
それなのに、男が声をかけた者の魂は全て、天の国に召されていたのです。
最初、悪魔は、この男はきっと魔法使いなのだろうと思いました。魔法使いが魔法を使って、人間を殺したり助けたりしているのだろう……しかし、悪魔は思いなおしました。
“私のように力のある悪魔が近くにいる”
たったそれだけで、地獄に落ちてしまう魂があっても不思議ではありませんでした。力の強い悪魔の存在は、それほど人間にとっては害なのです。
それなのに、そこにある全ての魂は天の国へ召されてゆきました。
この男はなんなのだろう。
ますます興味がわいた悪魔は、男のあとを再び追いました。
男は道をずんずんと進み、倒れている者すべてに声をかけ終わると、そのまま街を出てゆきます。悪魔も、そのまま男について行きました。
雪の中を歩くみすぼらしい男と、その後をついてゆく長身の悪魔。
街は遠ざかり、雪は山野を白く染め上げ、二人を見る者もいません。
聞こえるのは男の息遣いと、雪を踏みしめる音ばかり。
街を見下ろす小高い丘を登りきったとき、男はとうとう振り返り、目深にかぶっていたフードを外して悪魔を見ました。
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「……彼は、美しかった。私は、ひと目で魅入られてしまってね」
あの燃えるような豪華な赤毛……浅黒い肌に映える金色のひとみ……山猫のような野生的な美しさ……悪魔は独り言のようにつぶやくと、目をうっとりと細めて暖炉の炎を見つめました。まるで赤毛の男が目の前にいるかのような、そんな顔をしています。
「彼は…、まあ、結果を言うと魔法使いではなく、人間の皮をかぶった天使だったんだ」
そう言って悪魔は、頭の上に両手で輪っかを作り、いたずらっぽく微笑んで少年を見つめました。少年は目を輝かせながら「天使…」と小さくつぶやきましたが、すぐ表情をけわしくして、「敵なんだろう?」と言いました。
悪魔はそれに答えず、意味深な表情だけを少年に向けて、また暖炉へ目を向けます。
「その天使は、丘の上にある廃墟に住んでいてたんだ。…きっと、戦争が始まる前は教会が建っていたのだろうね。でも全て焼け落ちて、地下の納骨堂だけが残っていたんだ」
少年が「骨、いっぱいあったか?」と聞きましたが、悪魔は少しだけ困ったような…皮肉めいたような顔をして、少年の問いには答えず、話を続けました。
「天使は、自分をつけてきたモノが悪魔だと知ると、その穴ぐらに飛び込んでね。…私もすぐ彼を追って、その穴ぐら…納骨堂へ入ったのだよ。そうしたらね…」
何かを思い出して面白かったのか、悪魔がくすくすと笑います。
「くっくっく……! そうしたらね。地下まで追いかけてきた私に、そいつは…天使はひどく驚いてね。剣を取ろうとしたんだろう。でも握っていたのは、ひからびた人参だったのだよ」
天から授かった剣は、質屋に入れたばかりだったのを忘れていたらしい…と付け加え、悪魔は笑います。
少年は楽しそうな悪魔の様子につられて少し笑っていましたが、「ニンジンて何だ?」と聞き返しました。しかし悪魔はそれにも答えず、笑いながら話をすすめます。
「私はね、そいつの剣を質屋から買い戻してやった」
「なぜ?」
「退屈してたんだ」
悪魔は、そうつぶやきながら、少年のもじゃもじゃとした黒髪に長い指を刺し入れ、からまった髪を器用にほどきました。
「天使がその剣で、私に戦いを挑んできたら面白いと思ってね……でも、彼は、私にお礼を言ったんだ」
ほどいたばかりの少年の髪が勢いよく跳ねて、また別の髪の毛にからまりました。
「…お前は良い子だが、お前の髪の毛は、私の言うことを聞いたためしがない」
悪魔は真顔で、独り言のようにつぶやきました。
少年は頭をおおきく振って、悪魔の手から自分の髪を取り戻すと、話の続きをねだりました。悪魔は小さなため息をついて、話を続けます。
「…その天使はね、使命を受けて降臨したのはいいけれど、天界から課せられた制約が厳しすぎて人間界では食べて行けず、仕方なく持ち物を全て売ってしまったのだよ。剣も、盾も。全てをね」
悪魔が笑いながらそういうと、少年は眉をひそめました。
「その天使は、ばかだったの?」
転がりながら、真顔で言います。悪魔もそれに応え、真面目な顔で言いました。
「そうだね…天使は間抜けが多いかもしれないね。天使は、私達のような悪魔とは何もかも違うし、格の低い…馬鹿な悪魔とも違う。同じ馬鹿でもね。まだ人間の方が私達に近いんだよ」
悪魔は、またうっとりと目を細め、天使と過ごした楽しい時間──天使にとっては恐らく過酷な時間──を、とうとうと語りました。
「その天使はね……私を見過ごしてやる、と言ったのだよ」
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剣を質に入れるような天使ごときに『見過ごす』と言われた悪魔は、つい面白くなってしまい、天使と戦うことにしました。
最初、悪魔は、戦う気持ちはあまりありませんでした。天使が放つ香りと見た目に魅入られていましたし、もし天使が向かってきたら近くで匂いを嗅ぐことができる……少し相手をすればダンスのように楽しめるに違いない……と思っていたからです。
しかし、天使の物言いに面白くなってしまった悪魔は、少しだけ本気で戦ってみることにしました。
天使に向かって微笑む悪魔──その顔はとても美しかったですが、あまりにも邪悪でした。
殺気を感じた天使が剣をかまえると同時に、悪魔は天使に向かって飛翔しました。
天使と悪魔の戦いは、何日も続きました。
悪魔にとっては遊び半分の──それこそ戯れのような──戦いでしたが、天使にとってはそうではありませんでした。
天使が剣を振り上げれば、悪魔は納骨堂にあった人間の死体を積み上げて盾にし、天使にそれを切らせました。
悪魔は自分も剣で戦ってみたくなったのですが、あいにく持ち合わせていなかったので、不幸にも通りがかった人間の兵士に取り憑いて、天使を襲わせたりもしました。
天使は人間を助けるために存在していますから、生きている人間を傷付けるわけにはいきません。
兵士の剣からひたすら逃れるばかりの天使を見て、悪魔は楽しそうな笑顔を浮かべました。
でも、すぐ、悪魔は戦いに飽きてしまいました。天使は真剣に戦っているのですが、力の差が歴然としていたからです。
取り憑いていた兵士を捨て、悪魔は少し考えました。取り憑かれていた兵士は倒れ、今にも死んでしまいそうでした。
しかし天使が駆け寄って兵士に何かささやくと、兵士は意識を取り戻してなんとか立ち上がりました。そしておぼつかない足取りではありましたが、自力でその場を立ち去りました。
兵士が無事に立ち去ると、天使は激しい目で悪魔を睨みました。
悪魔はその目にぞくぞくとしました。力の差は大きいですが、まだ天使の心は死んでいない……悪魔は満面の笑みで、天使の視線に応えました。
そして、次の瞬間。
天使が起こした竜巻──刃をはらんだ、渦巻く風の螺旋──を、悪魔は真正面から喰らいました。竜巻は足元から全身を包みこみ、悪魔を引き裂きます。
しかし、竜巻が消えても悪魔は消えていませんでした。美しかった顔は半分ほど削げて無くなっていましたが、その笑みは消えてないばかりか、先程よりも楽しそうです。
天使は絶望し、疲れ果て、その場に膝をついてしまいました。
悪魔は、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ歩み寄り、座り込んでいる天使を見下ろしました。
天使が放った渾身の一撃で削いだはずの顔は、悪魔が歩むたった数歩の間に元に戻っていました。悪魔が冷たい手で天使の顎を取ったとき、天使は自分の消滅を確信しました。
悪魔は、天使の顔をじっと見つめていました。
数日戦ってもなお、あせることのない美しさです。燃えるような赤毛も、浅黒い肌も、金色の瞳も何もかも輝いて見えました。
そしてやはり、天使からは何とも言えない良い芳香がします。
悪魔はかがんで天使の頭に鼻を埋め、その匂いを堪能したあと、紫色の長い舌を出し、天使のほほをべろりと舐めました。
びっくりした天使が素っ頓狂な声を出し、身をよじって転がったのを見て、悪魔は大笑いしました。
そして、腹をかかえてひとしきり笑った後、「やめた」と言って背を向け、立ち去ろうとしました。
天使は驚きました。
同時に、ひどく誇りを傷付けられたような気持ちになった天使は、自分でも気付かないうちに「待て」と叫んでいました。
悪魔は足を止め、振り返って天使を見ました。
…天使の頼みの綱だった剣は刃が欠け、刀身には大きなヒビが入っています。それでも剣を握りしめ、傷ついた身体を引きずりながら歩み寄ってくる天使を、悪魔は黙って見守っていました。
やがて天使はおぼつかない足取りで悪魔の前に立ち、なぜとどめを刺さないのかと聞きました。
悪魔は飽きたことを正直に伝えました。飲まず食わず、睡眠も取らずに何日も戦うのは、悪魔にとってはどうということもありません。しかし受肉してヒトの身をまとう天使にとっては、過酷すぎる戦いです。
相手にならなくなったモノと戦うなど、悪魔にとっては退屈なだけでした。
それを聞いた天使は怒って、さらに剣を握りしめました。でも、その剣で悪魔を打つ代わりに「休憩だ」と言いました。
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「びっくりしたよ。真剣勝負に『休憩』だなんて!」
寝転がって、悪魔の話を静かに聞いていた黒髪の少年は「やっぱり、ばかなんだな」といいました。
人間同士の戦いであれば休戦もありますが、天使と悪魔の戦いにおいては、休戦などありえません。一度始まってしまえば、どちらかが消滅するまで戦い抜くのが両者の戦いなのです。
「でも、びっくりしてしまって。つい、うなずいてしまったんだ…」
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悪魔がうなずいた瞬間、天使は前のめりに倒れました。倒れきる前に、悪魔は天使を軽々と抱きとめ、そのまま地下の納骨堂へ天使を運び入れました。
悪魔は、天使を介抱することに決めました。
でも、悪魔の姿のままではきっとまた戦いを挑まれてしまうに違いありません。
そこで悪魔は人間に変身することにしました。しかし天使は悪魔を見抜く力を持っています。悪魔が持つ魔力を使って人間に化けても、力を隠して人間に取り憑いていたとしても、天使は必ず悪魔を見抜くことができるのです。
しかし例外もありました。
それは、人間の皮と血肉を使う方法でした。
悪魔はそのやり方を知っていましたし、幸い、新鮮な人間の皮と血肉は、街に行けばたくさんありました。
悪魔は再びその黒い翼を羽ばたかせ、街へ向かいました。
上手に人間に化けることができた悪魔は、とても上機嫌でした。
天使よりも小柄で華奢な身体に、少しだけ垂れた目の、柔らかで優しい顔。金色の長い髪の毛は後ろでしばって、服は死んでいた人間のものを拝借しました。
そして通りがかった見知らぬ若者のふりをして、天使を助けたのです。
悪魔は、かいがいしく天使の面倒をみました。
人間がするように薪を割って火を起こし、重たい水の入った樽を運び、街から食事を調達して、時には手にあかぎれを作ってみせることもありました。
弱っていた天使は、この通りすがりの若者──人間に化けた悪魔ではありましたが──の優しさに感謝し、若者の美しさもあいまって、次第に惹かれて行きました。
また同時に悪魔も、ますます天使に惹かれてゆくのを感じていました。そして、この生活に新鮮さも感じていました。
悪魔が持つ魔力を使ってしまうと、自分が悪魔であることが天使に知れてしまいます。悪魔の力を使わない生活はとても不便ではありましたが、楽しくもありました。
──悪魔の介抱が良かったのか、天使が元々強かったのかはわかりません。でも天使は元気になりました。そして二人は、とても仲良くなったのです。
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「…俺とお前みたいに?」
腹ばいになっていた少年は両手を伸ばし、“あしか”のように反り返って、少しだけ怒ったような口調で聞きました。
「いや、もっとだよ。お前と私は親子のようなものだが、その赤毛の天使と私の関係は恋人同士だったのだから」
それを聞いた少年はむくれて、薄汚れた人形を胸に抱き、毛布にくるまって背を向けてしまいました。
「…おや、怒ったの?」
悪魔は少し意外そうな顔をして、少年の頭を撫でました。
「……ふふっ、大丈夫。お前にもいつかわかる日が来る。私以外の愛おしい誰かを、お前もきっと見つけるんだよ」
「…いつ?」
「……さあて……」
悪魔はゆっくりと首をかたむけ、寝転がってる少年を見ました。その目には優しさが浮かんでいましたが、同時に、どこか他人事のような色も浮いていました。
窓の外は、いつの間にか吹雪いています。
しかし、部屋の中は静寂に満ちていました。
暖炉の薪が大きな音をたてて爆ぜ、その静けさを破ります。
「…天使がね、花冠を私にくれたんだ」
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それは冬の終わりのころでした。
雪の下から顔を覗かせた、小さくて青い花。その花と草とを編んで花冠を作り、天使は彼の恋人──人間に化けた悪魔──の頭に乗せました。そうして大切な恋人を、ぎゅっと抱きしめました。
悪魔は、これまで一度も感じたことのない感情に胸を支配されていました。それはとても暖かく、それでいて落ち着かない、じっとしていられない。胸の深いところからこんこんと湧いてくる、暖かい泉のような何か……そんな不思議な感情です。
悪魔は、しばらく抱きしめられていましたが、おもむろに天使の手を取り、その手にそっ…とキスをしました。天使は顔を赤くして、また再び恋人を抱きしめました。悪魔も恋人を抱きしめて、その耳元で愛をささやきました。
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──しかし神様は、天使が悪魔を愛することをお許しにはなりませんでした。
天使に、重い天罰を下されたのです。
人の身を得ているとは言え、悪魔を愛し、また愛されることなど許されるはずがありません。
悪魔は、天使が賜る天罰について知っていました。また天使も、天罰があることを知っていました。
だから恋人たちは語り合い、ただ寄りそって、手にキスをし、耳元で愛をささやくだけの関係にとどまっていたのです。
悪魔が天使の手にキスをした、よく朝。
目覚めると、天使の手が動かなくなっていました。それは、悪魔がキスをした左の手でした。
悪魔は天使に休むように言い、これまで以上にかいがいしく世話をやきました。しかし天使の身体は悪くなるばかりで、とうとう左手どころか左腕が動かなくなったのです。
左腕がまったく動かなくなると同時に、次は右手が動かなくなりました。
そうして何日か過ぎ、腕が完全に動かなくなると、今度は左手が腐り始めたのです。両腕が全て腐り落ちると、その次は足でした。
このままでは天使は朽ちて死んでしまう。
そう悟った悪魔は、天使が眠っている隙に人間の姿を捨て、急いで城に戻りました。城には古くて大きな図書室があります。古書や巻物を、ものすごい早さで読みあさりましたが、天使を助ける方法は見つかりません。
天使に詳しい魔法使いのところへ足を運んだり、天使を狩る猟師の元へ行ったりもしました。
でも一度天罰が下ってしまうと、何をしても無駄だったのです。
全てが手遅れだと知ったとき、悪魔は絶叫しました。
そして天空へ羽ばたき、気が狂ったかのように叫び続け、神を呪いました。
──何の手掛かりも得られぬまま、悪魔は天使の元へ戻りました。
二人が出会ったときと同じく、静かに雪が降っています。もう春も近いのに空気は冷たく、まるで冬に戻ってしまったかのようです。
悪魔は「寒い」とつぶやきました。
寒さなどこれまで感じたことがありませんでしたが、足の先から髪の先まで凍てつくような…刺すような冷たさです。
それでも悪魔は、丘の上の廃墟の前で立ち尽くしていました。頭や肩に、白い雪が静かに降りつもります。
一度捨ててしまった人間の姿は、もう元には戻りません。この姿を……悪魔の姿を見たら、天使は何と思うだろうか。今まで愛し愛されていた恋人が、自分を酷い目に合わせた悪魔だと知ったら?
天使はきっと、突然いなくなってしまった恋人を待っているでしょう。もしかしたら足が完全に動かなくなって、困っているかもしれない。
そのことに気づいた悪魔は、急いで納骨堂へ下りて行きました。
悪魔が出ていったときと同じ姿で、天使は横になっていました。悪魔が木の板と藁で作った粗末なベッドで、目を閉じて静かに眠っています。
その姿を見た悪魔は、大きな安堵のため息をつきました。
そしてベッドのそばに膝をつき、天使のひたいに触れようと手を伸ばしました。でも少しためらったあと、その手は引き下げられ、ベッドの枠に置かれました。
触ったら、そこが腐ってしまうかもしれない。悪魔はそう思ったのです。
悪魔はしばらく天使を見つめたあと、消えかかっていた窯の火に新しい薪をくべました。この窯も、悪魔が手ごろな石を拾ってきて作ったものでした。
炎が薪に燃えうつり、爆ぜる音をたてます。その音で気がついたのか、天使が目を開けました。
悪魔は覚悟しました。
そして、天使が何を言おうとも、最後まで看病しようと思いました。
しかし天使は悪魔を見つめ「元の姿に戻ったんだな」と言いました。
悪魔は驚いて天使の枕元に寄りました。
「いつから?」
いつから気づいていたのか? と言う悪魔の問いには答えず、天使は天井を見つめました。
その目に映るのは、納骨堂の石でできた暗い天井だけのはずでしたが、天使はさらに上……まるで天のどこかにあるとされている天界を見つめているような、遠い目をしていました。
そして悪魔に支えられつつ身体を起こした後、悪魔の薄くて冷たいくちびるにキスをしました。
「お前は悪魔だ。だから俺が腐って死んでしまう前に、俺を殺して、この身を食べろ」
天使はそう言いました。
悪魔は悲しそうに微笑んで「そうだね…」と言いました。
どうせ腐ってしまうのであれば、全て食べてしまいたい。確かに悪魔には、そういう気持もありました。しかし悪魔は、心から天使を愛してもいました。
天使はむごい苦しみを味わっていました。生きながら腐ってゆく天罰です。
悪魔は泣きました。
それまで“泣く”ということが一度も無かったので、悪魔は自分の目から次々とこぼれるものが何なのか、最初はわかりませんでした。
涙を流し続ける悪魔に、天使は再びキスをしました。そして静かに横たわり、目をつむりました。
──悪魔は愛をささやいて、天使の願いを叶えました。
それは優しく、苦痛もなく、とても安らかなものでした。
天使はただ、眠っているように見えました。
悪魔はひとり、涙を流し続けました。
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「…泣きながら、ひとくち、天使を食べてみたんだ。すごかったよ……身体中の魔力が膨大に膨らんで、限界を超えて高まり、まるで生まれ変わったかのように力がみなぎって」
「おいしかった?」
悪魔に頭を抱かれ、目を閉じた少年が眠たそうに聞きました。悪魔は答えず、でも微笑んで、少年の頭をゆっくりと撫でました。
「私がこんなにも長生きなのは、彼を…天使を食べたおかげだ。天使や、古のドラゴンのような力に満ちているものを食べると、私達は生まれ変わり、長生きできるのだよ」
悪魔は少年の頭を甘く食んで、食べるふりをしました。くすぐったかのでしょう。少年はくすくすと笑いながら「やめろ」と言いました。
「だからお前も、いつか天使を食べるといい。ドラゴンとは比べ物にならないほど力が強いし、香りも良い。それに、寿命にもことかかなくなるからね」
……悪魔はそう言うと、少年の額にキスをして、再び抱きしめました。
「…天使は嫌いだ。それに、まずそうだから違うのがいい」
少年は、まどろみながらつぶやきました。
そして薄汚れたぬいぐるみを抱いて、かすかに鳴る悪魔の心臓の音を聞きながら、ゆっくりとまぶたを閉じました。
悪魔は胸に抱いた少年の寝息を聞きながら、暖炉の炎を静かに見つめ続けていました。
そして、天使と共に過ごしたあの日々を──二度と戻らない愛を──思い返すのでした。
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---おわり---
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