──伽話──

文・逆亦重  文(監修)・ゆきえゆた  画・西緒十琉


───はねぇ、天使を食べたことがあるのだよ

 そう言うと悪魔は、腰まである長い髪をゆらゆらと揺らしながら、静かに立ちあがりました。

 かろやかで優雅な動き。
 長身を感じさせない、美しく貴族的な顔……
 …顔だけ見れば人間のように見えましたが、獣のような耳を持ち、そのとがった耳の後ろからは、ねじれた角がするりと伸びています。そして背中には、真っ黒で大きな翼が4枚も生えていました。

 悪魔は角にかかった象牙色(ぞうげいろ)の髪のひと房を、細くてきれいな指で払い落とすと、暖炉に(まき)をくべました。
 窓の外は真っ暗でしたが、雪が暖炉の炎を反射し、きらきらと光るのが見て取れます。

 とても静かで、()てつく夜でした。

寒くない?

 耳元で髪をかきあげながら、悪魔がゆるやかに振り向きました。象牙色だった髪が暖炉の炎の色に染まり、金色にかがやいて見えます。

 悪魔の話に耳をかたむけていた少年は、小さくうなずきました。
 毛布にくるまって毛足の長いじゅうたんに腹ばいになり、その胸に薄汚れたぬいぐるみを抱いて、ひとみをかがやかせています。
 少年はぬいぐるみをぎゅっと抱きなおし、悪魔を見上げました。話の続きを待っているようです。

 くべられた薪に炎が燃えうつり、パチパチと音をたて始めました。
 少年は悪魔を見つめ、悪魔は炎を見つめています。

 ───まるで昔々の出来事が、暖炉の奥に見えているかのような───そんな遠い目をして、悪魔は語りだしました。

…今日のように、とても寒い日でね…



 その日は、朝から雪がふわふわと舞っていました。

 生き物の気配が一切無い、石造りの冷たい城……

 その城で一人、悪魔は退屈を紛らわしていました。
 人魚の背ビレでできた(くし)で長い髪をすきながら、舞い落ちる雪を数えてみたり、窓に張り付いた雪の結晶を、画用紙ほどもある竜の(うろこ)に描き写してみたり……
 それにもあきた悪魔は、ふと何か思いついたのか。その背に生えた大きく黒い翼を羽ばたかせ、天窓から飛びたち、城をあとにしました。



 悪魔が降り立ったのは人間の世界でした。

 人間の世界では、今も昔もかわらずに、あちらこちらで戦争をしていました。

 悪魔は思いました。

 ──今日みたいな日は、死んだ人間や、死にかけてる人間の上につもる雪を見れるかもしれない。それはきっと美しく、この果てしない退屈を(まぎ)らわせてくれるだろう──悪魔の胸は期待でいっぱいです。

 そして、期待したとおり。
 人の世界は死と冷気で満ちていました。

 はいつくばって最後の生をつかもうとしている老人や、手足どころか命も無くした兵士。道端で幼子を抱いたまま、こときれた母親。

 黒い煙、汚泥(おでい)、苦痛と死。
 血や腐臭(ふしゅう)の臭い……

 戦場になってしまった街は、そんなものでいっぱいでした。

 凍てつく空気の中、ふわり、ふわりと舞い落ちる雪。

 綿毛(わたげ)のような雪はどんどん降りつもり、あらゆるものを白く染めてゆきます。ぬかるんだ道や畑を隠し、焼け落ちた山野や屋根をおおい、倒れている人々の上に、静かに、静かに重なってゆく……


 れらは悪魔の目に、とても美しく(うつ)りました。
 チョコレートケーキに粉砂糖をまぶしたような、甘い美しさ……そんなふうに、悪魔は感じていたのです。

 自分のからだに降りつもる雪もそのままに、悪魔は静かにたたずんで、人々をおおってゆく雪を(なが)めていました。

 やがて、泣き声やうめき声は聞こえなくなり、あたりは静かになりました。
 ──腐肉や汚泥(おでい)だけでなく、苦痛さえも白く染められゆく──その美しさに、悪魔はうっとりと微笑むのでした。



 …そうして半日も過ぎたころ。

 ひどくみすぼらしい男が、悪魔の前を通りすぎました。男は、ねずみ色をしたぼろぼろの外套(がいとう)を身にまとい、穴の開いた泥まみれの靴で、焼けこげた街の中をふらふらと歩いてゆきます。目深(まぶか)にフードをかぶっているせいで、その顔はよく見えません。

 悪魔はびっくりしました。なぜって、その男から、すばらしく良い匂いがしたからです。
 香水の香りでも、食べ物の匂いでもない。悪魔の本能を刺激するような、そんな匂いでした。

 悪魔はひきよせられるように、すうっと男の後を追いました。

 後をつけて観察してみると、妙なことをしているのが見てとれました。みすぼらしい男は、倒れてる人間に近寄っては、その耳元で何ごとかをささやいているのです。そして不思議なことに、ささやかれた者は立ち上がって歩き出すか、そうでない者は、眠るように安らかにこときれるのでした。

 しかも死者の魂は全て、天の国へ()されていたのです。

 人間は死ぬと、その身は土に(かえ)り、魂は身体を離れてしかるべきところへ向かいます。魂の行き先は人によって様々ですが、戦争をしている今、天の国に召される魂は、残念なことにとても少なくなっていました。

 それなのに、男が声をかけた者の魂は全て、天の国に召されていたのです。

 最初、悪魔は、この男はきっと魔法使いなのだろうと思いました。魔法使いが魔法を使って、人間を殺したり助けたりしているのだろう……しかし、悪魔は思いなおしました。

 “私のように力のある悪魔が近くにいる”

 たったそれだけで、地獄に落ちてしまう魂があっても不思議ではありませんでした。力の強い悪魔の存在は、それほど人間にとっては害なのです。
 それなのに、そこにある全ての魂は天の国へ召されてゆきました。

 この男はなんなのだろう。
 ますます興味がわいた悪魔は、男のあとを再び追いました。
 男は道をずんずんと進み、倒れている者すべてに声をかけ終わると、そのまま街を出てゆきます。悪魔も、そのまま男について行きました。

 雪の中を歩くみすぼらしい男と、その後をついてゆく長身の悪魔。
 街は遠ざかり、雪は山野を白く染め上げ、二人を見る者もいません。
 聞こえるのは男の息遣いと、雪を踏みしめる音ばかり。

 街を見下ろす小高い丘を登りきったとき、男はとうとう振り返り、目深にかぶっていたフードを外して悪魔を見ました。


……は、美しかった。私は、ひと目で魅入(みい)られてしまってね

 あの燃えるような豪華な赤毛……浅黒(あさぐろ)い肌に()える金色のひとみ……山猫のような野生的な美しさ……悪魔は独り言のようにつぶやくと、目をうっとりと細めて暖炉の炎を見つめました。まるで赤毛の男が目の前にいるかのような、そんな顔をしています。

彼は…、まあ、結果を言うと魔法使いではなく、人間の皮をかぶった天使だったんだ

 そう言って悪魔は、頭の上に両手で輪っかを作り、いたずらっぽく微笑んで少年を見つめました。少年は目を輝かせながら「天使…」と小さくつぶやきましたが、すぐ表情をけわしくして、「敵なんだろう?」と言いました。

 悪魔はそれに答えず、意味深(いみぶか)な表情だけを少年に向けて、また暖炉へ目を向けます。

その天使は、丘の上にある廃墟(はいきょ)に住んでいてたんだ。…きっと、戦争が始まる前は教会が建っていたのだろうね。でも全て焼け落ちて、地下の納骨堂(のうこつどう)だけが残っていたんだ

 少年が「骨、いっぱいあったか?」と聞きましたが、悪魔は少しだけ困ったような…皮肉めいたような顔をして、少年の問いには答えず、話を続けました。

天使は、自分をつけてきたモノが悪魔だと知ると、その穴ぐらに飛び込んでね。…私もすぐ彼を追って、その穴ぐら…納骨堂へ入ったのだよ。そうしたらね…

 何かを思い出して面白かったのか、悪魔がくすくすと笑います。

くっくっく……! そうしたらね。地下まで追いかけてきた私に、そいつは…天使はひどく驚いてね。剣を取ろうとしたんだろう。でも握っていたのは、ひからびた人参だったのだよ」

 天から授かった剣は、質屋に入れたばかりだったのを忘れていたらしい…と付け加え、悪魔は笑います。
 少年は楽しそうな悪魔の様子につられて少し笑っていましたが、「ニンジンて何だ?」と聞き返しました。しかし悪魔はそれにも答えず、笑いながら話をすすめます。

私はね、そいつの剣を質屋から買い戻してやった

なぜ?

退屈してたんだ

 悪魔は、そうつぶやきながら、少年のもじゃもじゃとした黒髪に長い指を刺し入れ、からまった髪を器用にほどきました。

天使がその剣で、私に戦いを挑んできたら面白いと思ってね……でも、彼は、私にお礼を言ったんだ

 ほどいたばかりの少年の髪が勢いよく跳ねて、また別の髪の毛にからまりました。

…お前は良い子だが、お前の髪の毛は、私の言うことを聞いたためしがない

 悪魔は真顔で、独り言のようにつぶやきました。

 少年は頭をおおきく振って、悪魔の手から自分の髪を取り戻すと、話の続きをねだりました。悪魔は小さなため息をついて、話を続けます。

…その天使はね、使命を受けて降臨(こうりん)したのはいいけれど、天界から()せられた制約が厳しすぎて人間界では食べて行けず、仕方なく持ち物を全て売ってしまったのだよ。剣も、盾も。全てをね

 悪魔が笑いながらそういうと、少年は眉をひそめました。

その天使は、ばかだったの?

 転がりながら、真顔で言います。悪魔もそれに応え、真面目な顔で言いました。

そうだね…天使は間抜けが多いかもしれないね。天使は、私達のような悪魔とは何もかも違うし、格の低い…馬鹿な悪魔とも違う。同じ馬鹿でもね。まだ人間の方が私達に近いんだよ

 悪魔は、またうっとりと目を細め、天使と過ごした楽しい時間──天使にとっては恐らく過酷な時間──を、とうとうと語りました。

その天使はね……私を見過ごしてやる、と言ったのだよ



 剣を質に入れるような天使ごときに『見過ごす』と言われた悪魔は、つい面白くなってしまい、天使と戦うことにしました。
 最初、悪魔は、戦う気持ちはあまりありませんでした。天使が放つ香りと見た目に魅入られていましたし、もし天使が向かってきたら近くで匂いを嗅ぐことができる……少し相手をすればダンスのように楽しめるに違いない……と思っていたからです。

 しかし、天使の物言いに面白くなってしまった悪魔は、少しだけ本気で戦ってみることにしました。

 天使に向かって微笑む悪魔──その顔はとても美しかったですが、あまりにも邪悪でした。
 殺気を感じた天使が剣をかまえると同時に、悪魔は天使に向かって飛翔しました。



 天使と悪魔の戦いは、何日も続きました。
 悪魔にとっては遊び半分の──それこそ(たわむ)れのような──戦いでしたが、天使にとってはそうではありませんでした。

 天使が剣を振り上げれば、悪魔は納骨堂にあった人間の死体を積み上げて盾にし、天使にそれを切らせました。
 悪魔は自分も剣で戦ってみたくなったのですが、あいにく持ち合わせていなかったので、不幸にも通りがかった人間の兵士に取り憑いて、天使を襲わせたりもしました。

 天使は人間を助けるために存在していますから、生きている人間を傷付けるわけにはいきません。
 兵士の剣からひたすら逃れるばかりの天使を見て、悪魔は楽しそうな笑顔を浮かべました。

 でも、すぐ、悪魔は戦いに()きてしまいました。天使は真剣に戦っているのですが、力の差が歴然としていたからです。

 取り憑いていた兵士を捨て、悪魔は少し考えました。取り憑かれていた兵士は倒れ、今にも死んでしまいそうでした。
 しかし天使が駆け寄って兵士に何かささやくと、兵士は意識を取り戻してなんとか立ち上がりました。そしておぼつかない足取りではありましたが、自力でその場を立ち去りました。

 兵士が無事に立ち去ると、天使は激しい目で悪魔を(にら)みました。

 悪魔はその目にぞくぞくとしました。力の差は大きいですが、まだ天使の心は死んでいない……悪魔は満面の笑みで、天使の視線に応えました。

 そして、次の瞬間。
 天使が起こした竜巻──(やいば)をはらんだ、渦巻く風の螺旋(らせん)──を、悪魔は真正面から喰らいました。竜巻は足元から全身を包みこみ、悪魔を引き裂きます。

 しかし、竜巻が消えても悪魔は消えていませんでした。美しかった顔は半分ほど()げて無くなっていましたが、その笑みは消えてないばかりか、先程よりも楽しそうです。

 天使は絶望し、疲れ果て、その場に膝をついてしまいました。
 悪魔は、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ歩み寄り、座り込んでいる天使を見下ろしました。
 天使が放った渾身(こんしん)の一撃で削いだはずの顔は、悪魔が歩むたった数歩の間に元に戻っていました。悪魔が冷たい手で天使の(あご)を取ったとき、天使は自分の消滅を確信しました。

 悪魔は、天使の顔をじっと見つめていました。
 数日戦ってもなお、あせることのない美しさです。燃えるような赤毛も、浅黒い肌も、金色の瞳も何もかも輝いて見えました。
 そしてやはり、天使からは何とも言えない良い芳香(ほうこう)がします。

 悪魔はかがんで天使の頭に鼻を(うず)め、その匂いを堪能(たんのう)したあと、紫色の長い舌を出し、天使のほほをべろりと舐めました。
 びっくりした天使が素っ頓狂な声を出し、身をよじって転がったのを見て、悪魔は大笑いしました。

 そして、腹をかかえてひとしきり笑った後、「やめた」と言って背を向け、立ち去ろうとしました。

 天使は驚きました。
 同時に、ひどく誇りを傷付けられたような気持ちになった天使は、自分でも気付かないうちに「待て」と叫んでいました。

 悪魔は足を止め、振り返って天使を見ました。
 …天使の頼みの綱だった剣は刃が欠け、刀身には大きなヒビが入っています。それでも剣を握りしめ、傷ついた身体を引きずりながら歩み寄ってくる天使を、悪魔は黙って見守っていました。

 やがて天使はおぼつかない足取りで悪魔の前に立ち、なぜとどめを刺さないのかと聞きました。

 悪魔は飽きたことを正直に伝えました。飲まず食わず、睡眠も取らずに何日も戦うのは、悪魔にとってはどうということもありません。しかし受肉(じゅにく)してヒトの身をまとう天使にとっては、過酷すぎる戦いです。
 相手にならなくなったモノと戦うなど、悪魔にとっては退屈なだけでした。

 それを聞いた天使は怒って、さらに剣を握りしめました。でも、その剣で悪魔を打つ代わりに「休憩だ」と言いました。



びっくりしたよ。真剣勝負に『休憩』だなんて!

 寝転がって、悪魔の話を静かに聞いていた黒髪の少年は「やっぱり、ばかなんだな」といいました。
 人間同士の戦いであれば休戦もありますが、天使と悪魔の戦いにおいては、休戦などありえません。一度始まってしまえば、どちらかが消滅するまで戦い抜くのが両者の戦いなのです。

でも、びっくりしてしまって。つい、うなずいてしまったんだ…



 悪魔がうなずいた瞬間、天使は前のめりに倒れました。倒れきる前に、悪魔は天使を軽々と抱きとめ、そのまま地下の納骨堂へ天使を運び入れました。

 悪魔は、天使を介抱(かいほう)することに決めました。
 でも、悪魔の姿のままではきっとまた戦いを(いど)まれてしまうに違いありません。

 そこで悪魔は人間に変身することにしました。しかし天使は悪魔を見抜く力を持っています。悪魔が持つ魔力を使って人間に化けても、力を隠して人間に取り憑いていたとしても、天使は必ず悪魔を見抜くことができるのです。

 しかし例外もありました。
 それは、人間の皮と血肉を使う方法でした。
 悪魔はそのやり方を知っていましたし、幸い、新鮮な人間の皮と血肉は、街に行けばたくさんありました。

 悪魔は再びその黒い翼を羽ばたかせ、街へ向かいました。



 上手に人間に化けることができた悪魔は、とても上機嫌でした。
 天使よりも小柄で華奢(きゃしゃ)な身体に、少しだけ垂れた目の、柔らかで優しい顔。金色の長い髪の毛は後ろでしばって、服は死んでいた人間のものを拝借しました。

 そして通りがかった見知らぬ若者のふりをして、天使を助けたのです。

 悪魔は、かいがいしく天使の面倒をみました。
 人間がするように(まき)を割って火を起こし、重たい水の入った(たる)を運び、街から食事を調達して、時には手にあかぎれを作ってみせることもありました。
 弱っていた天使は、この通りすがりの若者──人間に化けた悪魔ではありましたが──の優しさに感謝し、若者の美しさもあいまって、次第に惹かれて行きました。
 また同時に悪魔も、ますます天使に惹かれてゆくのを感じていました。そして、この生活に新鮮さも感じていました。
 悪魔が持つ魔力を使ってしまうと、自分が悪魔であることが天使に知れてしまいます。悪魔の力を使わない生活はとても不便ではありましたが、楽しくもありました。

 ──悪魔の介抱が良かったのか、天使が元々強かったのかはわかりません。でも天使は元気になりました。そして二人は、とても仲良くなったのです。



…俺とお前みたいに?

 腹ばいになっていた少年は両手を伸ばし、“あしか”のように反り返って、少しだけ怒ったような口調で聞きました。

いや、もっとだよ。お前と私は親子のようなものだが、その赤毛の天使と私の関係は恋人同士だったのだから

 それを聞いた少年はむくれて、薄汚れた人形を胸に抱き、毛布にくるまって背を向けてしまいました。

…おや、怒ったの?

 悪魔は少し意外そうな顔をして、少年の頭を撫でました。

……ふふっ、大丈夫。お前にもいつかわかる日が来る。私以外の愛おしい誰かを、お前もきっと見つけるんだよ

…いつ?

……さあて……

 悪魔はゆっくりと首をかたむけ、寝転がってる少年を見ました。その目には優しさが浮かんでいましたが、同時に、どこか他人事のような色も浮いていました。

 窓の外は、いつの間にか吹雪いています。
 しかし、部屋の中は静寂に満ちていました。

 暖炉の(まき)が大きな音をたてて()ぜ、その静けさを破ります。

…天使がね、花冠(はなかんむり)を私にくれたんだ



 それは冬の終わりのころでした。

 雪の下から顔を(のぞ)かせた、小さくて青い花。その花と草とを編んで花冠を作り、天使は彼の恋人──人間に化けた悪魔──の頭に乗せました。そうして大切な恋人を、ぎゅっと抱きしめました。

 悪魔は、これまで一度も感じたことのない感情に胸を支配されていました。それはとても暖かく、それでいて落ち着かない、じっとしていられない。胸の深いところからこんこんと湧いてくる、暖かい泉のような何か……そんな不思議な感情です。

 悪魔は、しばらく抱きしめられていましたが、おもむろに天使の手を取り、その手にそっ…とキスをしました。天使は顔を赤くして、また再び恋人を抱きしめました。悪魔も恋人を抱きしめて、その耳元で愛をささやきました。


 ──かし神様は、天使が悪魔を愛することをお許しにはなりませんでした。

 天使に、重い天罰を下されたのです。

 人の身を得ているとは言え、悪魔を愛し、また愛されることなど許されるはずがありません。

 悪魔は、天使が(たまわ)る天罰について知っていました。また天使も、天罰があることを知っていました。
 だから恋人たちは語り合い、ただ寄りそって、手にキスをし、耳元で愛をささやくだけの関係にとどまっていたのです。

 悪魔が天使の手にキスをした、よく朝。

 目覚めると、天使の手が動かなくなっていました。それは、悪魔がキスをした左の手でした。
 悪魔は天使に休むように言い、これまで以上にかいがいしく世話をやきました。しかし天使の身体は悪くなるばかりで、とうとう左手どころか左腕が動かなくなったのです。

 左腕がまったく動かなくなると同時に、次は右手が動かなくなりました。
 そうして何日か過ぎ、腕が完全に動かなくなると、今度は左手が腐り始めたのです。両腕が全て腐り落ちると、その次は足でした。

 このままでは天使は朽ちて死んでしまう。

 そう悟った悪魔は、天使が眠っている(すき)に人間の姿を捨て、急いで城に戻りました。城には古くて大きな図書室があります。古書や巻物を、ものすごい早さで読みあさりましたが、天使を助ける方法は見つかりません。
 天使に詳しい魔法使いのところへ足を運んだり、天使を狩る猟師の元へ行ったりもしました。

 でも一度天罰が下ってしまうと、何をしても無駄だったのです。

 全てが手遅れだと知ったとき、悪魔は絶叫しました。
 そして天空へ羽ばたき、気が狂ったかのように叫び続け、神を呪いました。



 ──何の手掛かりも得られぬまま、悪魔は天使の元へ戻りました。
 二人が出会ったときと同じく、静かに雪が降っています。もう春も近いのに空気は冷たく、まるで冬に戻ってしまったかのようです。

 悪魔は「寒い」とつぶやきました。
 寒さなどこれまで感じたことがありませんでしたが、足の先から髪の先まで()てつくような…刺すような冷たさです。

 それでも悪魔は、丘の上の廃墟の前で立ち尽くしていました。頭や肩に、白い雪が静かに降りつもります。

 一度捨ててしまった人間の姿は、もう元には戻りません。この姿を……悪魔の姿を見たら、天使は何と思うだろうか。今まで愛し愛されていた恋人が、自分を酷い目に合わせた悪魔だと知ったら?

 天使はきっと、突然いなくなってしまった恋人を待っているでしょう。もしかしたら足が完全に動かなくなって、困っているかもしれない。
 そのことに気づいた悪魔は、急いで納骨堂へ下りて行きました。

 悪魔が出ていったときと同じ姿で、天使は横になっていました。悪魔が木の板と(わら)で作った粗末なベッドで、目を閉じて静かに眠っています。

 その姿を見た悪魔は、大きな安堵(あんど)のため息をつきました。
 そしてベッドのそばに膝をつき、天使のひたいに触れようと手を伸ばしました。でも少しためらったあと、その手は引き下げられ、ベッドの枠に置かれました。
 触ったら、そこが腐ってしまうかもしれない。悪魔はそう思ったのです。

 悪魔はしばらく天使を見つめたあと、消えかかっていた窯の火に新しい薪をくべました。この窯も、悪魔が手ごろな石を拾ってきて作ったものでした。

 炎が薪に燃えうつり、爆ぜる音をたてます。その音で気がついたのか、天使が目を開けました。

 悪魔は覚悟しました。
 そして、天使が何を言おうとも、最後まで看病しようと思いました。

 しかし天使は悪魔を見つめ「元の姿に戻ったんだな」と言いました。
 悪魔は驚いて天使の枕元に寄りました。

いつから?

 いつから気づいていたのか? と言う悪魔の問いには答えず、天使は天井を見つめました。
 その目に映るのは、納骨堂の石でできた暗い天井だけのはずでしたが、天使はさらに上……まるで天のどこかにあるとされている天界を見つめているような、遠い目をしていました。
 そして悪魔に支えられつつ身体を起こした後、悪魔の薄くて冷たいくちびるにキスをしました。

お前は悪魔だ。だから俺が腐って死んでしまう前に、俺を殺して、この身を食べろ

 天使はそう言いました。
 悪魔は悲しそうに微笑んで「そうだね…」と言いました。

 どうせ腐ってしまうのであれば、全て食べてしまいたい。確かに悪魔には、そういう気持もありました。しかし悪魔は、心から天使を愛してもいました。

 天使はむごい苦しみを味わっていました。生きながら腐ってゆく天罰です。

 悪魔は泣きました。
 それまで“泣く”ということが一度も無かったので、悪魔は自分の目から次々とこぼれるものが何なのか、最初はわかりませんでした。

 涙を流し続ける悪魔に、天使は再びキスをしました。そして静かに横たわり、目をつむりました。

 ──悪魔は愛をささやいて、天使の願いを叶えました。
 それは優しく、苦痛もなく、とても安らかなものでした。
 天使はただ、眠っているように見えました。

 悪魔はひとり、涙を流し続けました。



きながら、ひとくち、天使を食べてみたんだ。すごかったよ……身体中の魔力が膨大に膨らんで、限界を超えて高まり、まるで生まれ変わったかのように力がみなぎって

おいしかった?

 悪魔に頭を抱かれ、目を閉じた少年が眠たそうに聞きました。悪魔は答えず、でも微笑んで、少年の頭をゆっくりと撫でました。

私がこんなにも長生きなのは、彼を…天使を食べたおかげだ。天使や、(いにしえ)のドラゴンのような力に満ちているものを食べると、私達は生まれ変わり、長生きできるのだよ

 悪魔は少年の頭を甘く()んで、食べるふりをしました。くすぐったかのでしょう。少年はくすくすと笑いながら「やめろ」と言いました。

だからお前も、いつか天使を食べるといい。ドラゴンとは比べ物にならないほど力が強いし、香りも良い。それに、寿命にもことかかなくなるからね

 ……悪魔はそう言うと、少年の額にキスをして、再び抱きしめました。

…天使は嫌いだ。それに、まずそうだから違うのがいい

 少年は、まどろみながらつぶやきました。
 そして薄汚れたぬいぐるみを抱いて、かすかに鳴る悪魔の心臓の音を聞きながら、ゆっくりとまぶたを閉じました。

 悪魔は胸に抱いた少年の寝息を聞きながら、暖炉の炎を静かに見つめ続けていました。

 そして、天使と共に過ごしたあの日々を──二度と戻らない愛を──思い返すのでした。


---おわり---

魔法使いと天使と悪魔
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